朝田寺https://chodenji.jp三重県松阪市の道明け供養と曽我蕭白と花のお寺Wed, 26 Mar 2025 12:38:49 +0000jahourly1https://chodenji.jp/wp-content/uploads/2024/10/cropped-jimon-01-scaled-1-32x32.jpg朝田寺https://chodenji.jp3232 Kさんが残した言葉https://chodenji.jp/k%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%8c%e6%ae%8b%e3%81%97%e3%81%9f%e8%a8%80%e8%91%89/Wed, 26 Mar 2025 12:38:47 +0000https://chodenji.jp/?p=2994笑がおは 人をいやす あたえても 与えられても

 亡くなられた知らせを聞くと、先ず、お家に伺って葬儀の相談に乗ることにしています。その際、亡くなられた方のエピソードをいろいろ聞きながら、戒名(法名)を考えます。

 また、お葬式の中で、歎徳(たんどく)といって、その方の経歴や人柄や文章にして読むため、1時間くらい家族や親族の方々の話を聞くことにしています。

 Kさんは10年ほどリンパ腫と戦い、ご主人の手厚い介護にもかかわらず、3月23日、午前5時30分、帰らぬ人となりました。行年83才。

 「床の間の南無阿弥陀仏の軸はそのままでいいですか?」と聞かれ、床の間を見ると、南無阿弥陀仏のお軸の右に1枚の色紙が掛かっていました。その色紙には「笑がおは 人をいやす あたえても 与えられても」と書かれていました。             お家のどなたに聞いても、なぜそこにそんな軸が掛けられているのかご存知ありません。

 きっと亡くなられたKさんが大切にしていたのでしょうね。カラオケが大好きで明るいご性格のKさんにピッタリの言葉です。

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あさみむかしむかし⑤ー2 よいよい神事https://chodenji.jp/%e3%81%82%e3%81%95%e3%81%bf%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e2%91%a4%e3%83%bc%ef%bc%92%e3%80%80%e3%82%88%e3%81%84%e3%82%88%e3%81%84%e7%a5%9e%e4%ba%8b/Wed, 26 Mar 2025 11:41:40 +0000https://chodenji.jp/?p=3007この神事は、毎年二月十一日、和屋・立田・朝田の三町で行われるおまつりで、松阪市の文化財の指定を受けています。

 この神事は、7~8mの青竹に幣を付けたオハゲを、和屋町から立田町、立田町から朝田町へと送ります。

 よいよいと掛け声をかける若者たちに担がれたオハゲは、和屋町の畠田神社を出発し、獅子に見送られて農道を立利(立田)へと一気に駆けます。

 若者たちはm和屋町と立田町の境でオハゲを斜めに刺した後、和屋町へと駆け戻ります。和屋町に帰ると、田んぼの中で出迎えた獅子ともみ合います。、もみ合いが激しい程豊作だとされます。

 一方、立田町では、このオハゲを引き抜いて持ち帰り、穴師神社で祭典を終えると、紙垂れを付けた柳の小枝を手に持って、よいよいと言いながら、オハゲを朝田町に送ります。朝田町では、朝から村中を清めて回った獅子が先頭に立ち、よいよいとオハゲを出迎え、オハゲは意非多神社(土の宮)に納められます。

 これの神事も長田荘司忠致のお話に関係しています。

 この神事は、首を打たれた長田荘司忠致った道ぞいは、その時から作物れなくなったので、忠致げた道を清め悪霊を追い払うためにまったといわれる、900年続く古い神事なのです。

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あさみむかしむかし⑤https://chodenji.jp/%e3%81%82%e3%81%95%e3%81%bf%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e2%91%a4/Tue, 25 Mar 2025 13:01:50 +0000https://chodenji.jp/?p=3002

 

源義朝(みなもとのよしとも)は、平家(へいけ)(ま)けて、尾張(おわり)の国まで(に)げたのですが、長田荘司忠致(おさだのしょうじただむね)(ころ)されてしまいました。長田荘司忠致(おさだのしょうじただむね)は、源氏(げんじ)大将(たいしょう)(よし)(とも)(くび)(と)ったことで、平家(へいけ)の中でも(たか)(くらい)についていました。

 ところが、しばらくして、(より)(とも)平家(へいけ)に勝って、日本の国を(おさ)めるようになると、「父を(ころ)した忠致(ただむね)(つか)まえろ」との命令(めいれい)が出したのです。

 伊勢(いせ)にかくれていることを(し)った(より)(とも)は、家来(けらい)伊勢(いせ)に行かせて、忠致(ただむね)をさがさせました。そしてついに朝田(あさだ)庄屋(しょうや)さんであった(けい)太夫(だゆう)の家にかくれていることを(つ)(と)めました。(より)(とも)から命令(めいれい)された(さむらい)たちは、朝早くから庄屋(しょうや)さんの家を取り囲(と かこ)みました。 忠致(ただむね)は、(かたな)(も)って、家の裏庭(うらにわ)(と)(だ)し、朝田から立田(たつた)和屋(わや)へ、それから佐奈(さな)まで(に)げ、(ふたた)び朝田へともどってきました。しかし、大勢(おおぜい)(お)にはかないません。ついに脇野九郎(わきのくろう)(ざ)衛門(えもん)という(さむらい)(くび)をはねられてしまいました。

 その首は、朝田の西にあるお宮さんまで(と)んで、土をかんで(し)んだそうです。朝田のお宮さんは『(お)(い)多神社(たじんじゃ)』といいますが、「(つち)(みや)」という名は、このお話からその名がついたといわれています。

 また、土の宮は、土の団子を備えてお願いすると、いぼが取れると、今でもお参りする人があるようです。社殿の右には小さな鳥居があって、土の団子が供えられています。

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あさみむかしむかし④ 佐久米古墳群https://chodenji.jp/%e3%81%82%e3%81%95%e3%81%bf%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e2%91%a3%e3%80%80%e4%bd%90%e4%b9%85%e7%b1%b3%e5%8f%a4%e5%a2%b3%e7%be%a4/Mon, 24 Mar 2025 12:37:13 +0000https://chodenji.jp/?p=2990

上の写::左 糠塚    中央 丸山塚                           下の写真:木の生えていたところが大塚

真盛橋から河口へ200m下流、金剛川と真盛川に挟まれたところに、高さ2m・径36mの円墳があります。これが糠塚

糠塚から東南方向、真盛川の東100mのところにある径30mほどの円墳、墳丘は土取で破壊されています。これが丸山塚

県道を佐久米町の方に進み、九の字に折れるあたりの畑にあったのが大塚

この3基の古墳を総称して、佐久米古墳群と呼んでいます。

大塚古墳は、県道を造った際、土取りにより破壊されたもので、地積図から見ると、帆立貝式古墳であったと思われます。この古墳からは、金銅製の眉庇付冑や道鏡3面・武具片・勾玉が出土しています。現在、眉庇付冑はメトロポリタン美術館に収蔵されています。

松阪市には宝塚2号墳と岡本1号墳(高地蔵古墳)そして大塚と3基の帆立貝式古墳が確認されていて、5世紀後半に市域に3つの豪族が勢力をふるっていたことが予想されます。また、多気バイパスの工事に伴う発掘調査では、朝田寺南西300mの地点で弥生時代後期の環濠集落が見つかり、後期の弥生土器の他、銅鐸型土製品も出土しています。奈良時代から平安・鎌倉時代の井戸や室町時代の旧河道も見つかっており、この地に古くから人々が生活していたことが分かります。

朝田寺に平安期の仏像が多く残るのも、こうした背景があったからだと思うのです。

                    

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永代供養墓もお彼岸はお花で飾られてます。https://chodenji.jp/%e6%b0%b8%e4%bb%a3%e4%be%9b%e9%a4%8a%e5%a2%93%e3%82%82%e3%81%8a%e5%bd%bc%e5%b2%b8%e3%81%af%e3%81%8a%e8%8a%b1%e3%81%a7%e9%a3%be%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%be%e3%81%99%e3%80%82/Fri, 21 Mar 2025 11:47:58 +0000https://chodenji.jp/?p=2985

四日市のSさん、お参りに来てくれたね。きれいなお花が供えられていました。

Nさん三姉妹、お墓詣りの後は、どこへランチに行ったんだろう。

Hさん、Sさん、Tさん、娘さんが来てくれてよかったね。

Kさん、姪っ子さんが来てくれたんだね。

お彼岸でお掃除をしながら、高野マキと樒(しきみ)をさして、永代供養のお墓を回ります。

永代供養のお墓はお寺任せ・・・。もちろん、身寄りのない方独り身のはお寺でお花をお供えするのですが、・・・・・・・ほとんどのお墓は、誰かがお参りしてくださっているのです。

「あなたはひとりじゃないよ。よかったね。」 私は、そうつぶやきながら、お花の筒に水をさしていきます。お彼岸に個々のお墓にお花がお供えされるのは当然ですが、永代供養墓だって負けてない。それが、とてもうれしいのです。

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あさみむかしむかし③~真盛川と真盛橋のおはなしhttps://chodenji.jp/%e7%9c%9f%e7%9b%9b%e5%b7%9d%e3%81%a8%e7%9c%9f%e7%9b%9b%e6%a9%8b%e3%81%ae%e3%81%8a%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%97%ef%bd%9e%e3%81%82%e3%81%95%e3%81%bf%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97/Fri, 14 Mar 2025 12:40:21 +0000https://chodenji.jp/?p=2968

今から550年ほど前のお話です。

津市一志町大仰(おおのき)というところのあるえらいお役人の家にひとりの男の子が生まれました。宝珠(ほうじゅ)(まる)と名付けられた男の子は。七才でお寺に入り、14才で(しん)(せい)というお坊さんの名をもらいました。16才から20年間 琵琶湖の北にある比叡山(ひえいざん)(きび)しい修行(しゅぎょう)をした真盛は、山を下りて、「なむあみだぶつ」ととなえることで、多くの人を救おうとました。津に西来寺(せいらいじ)というお寺があります。真盛上人(しょうにん)というお坊さんのために建てられたお寺で、真盛上人はこのお寺から100日間、朝田寺のお地蔵さんにお参りされたそうです。

 真盛上人というお坊さんが、津の西来寺から朝田寺のお地蔵さんに100日参りをされていたある日のこ と、朝田の西にある川にさしかかった時のことです。

 何やら村人たちが集まっていました。                                            「ああ、どうしよう」                                                    「困ったことじゃ」                                                          「きのうの大雨で、橋が流されてしもうた。」                                          困っている村人たちを見た真盛は                                                  「みんなで力を合わせて、橋をかけ直しましょう。」と、村人たちを励まして、先頭にたって働きました。

橋が完成し、感謝した村人たちは言いました。                                        「ありがとうございます。お上人(しょうにん)のおかげで、(む)こう(ぎし)の田んぼにも行けるようになりました。これからは、この川を(しん)盛川(せいがわ)、この橋を(しん)(せい)(ばし)とよびましょう。」

 この川は、それまで上川上川(うえがわ)と呼ばれていたそうですが、真盛上人のおかげで橋ができたことに感謝(かんしゃ)して、真盛上人の名をとって、上川(うえがわ)(しん)盛川(せいがわ)(はし)(しん)(せい)(ばし)(よ)ばれるようになったそうです。

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朝見むかしむかし②~夜泣き橋のことhttps://chodenji.jp/%e6%9c%9d%e8%a6%8b%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e2%91%a1%ef%bd%9e%e5%a4%9c%e6%b3%a3%e3%81%8d%e6%a9%8b%e3%81%ae%e3%81%93%e3%81%a8/Mon, 10 Mar 2025 13:20:16 +0000https://chodenji.jp/?p=2961天正16年(一五八八年)、松坂城主蒲生氏郷(がもううじさと)が城を築こうと、資材を集める命を出した頃の話です。

朝田町から松阪方面に進むと、真盛川と金剛川、少し離れて名古須川が流れています。名古須川にかかる橋を『橋本橋』といいますが、橋本橋の下流の方に小さな鉄の橋がかかっています。これからお話するのは、その小さな橋のお話です。

朝見村の東、櫛田川の対岸に機殿村(はたどのむら)があります。機殿の井口中町に神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)があります。そこに『夜泣きの松』と呼ばれる大きな松の木があったそうな。この松には不思議な力があってな。子どもが夜泣きをしたときに松の木の皮をはいで枕の下にいれておくっだとさ。するとたちまち夜泣きがおさまったそうな。

ところが、お城の用材にこの松の木を切ることになってな。切った松の木をシュラ(大きな物の下に入れ引きづって運ぶソリのような物)に乗せて、村人たちが引っ張って名古須川の堤防にさしかかった時、シュラが急に動かなくなってしまったとさ。押してもダメ、引っ張ってもダメ。万力をもってしてもまるで根がはえたみたいにびくともしない。                「こりゃ、もう駄目じゃ。きっと神さまの仕業じゃ。神さまの木を切ってしまった天罰じゃ」                恐ろしくなった村人たちは、その場に松の木を置いたまま、逃げ帰ってしまいました。

それから何年かたって、その松の木は、名古須川の橋としてかけられました。

その内、この橋の木が神麻続機殿神社にあった『夜泣きの松』だった知られるようになると、その橋の木を削って枕の下にいれるようになったのです。すると、アラアラ不思議、子どもの夜泣きがピッタと治まるではありませんか。その噂がだんだん広まって、あちことからたくさんの人がやって来て、橋の木を削っていくようになりました。              そのため、木が細くなるたびに、新しい木に取り替えねばならなくなりました。松の木が他の木にかわっても、子どもの夜泣きを治そうと、橋の木を削っていく人が後を絶たなかったそうです。そして、この木を削ることは、100年前まで続いていたとか・・・・・

 

 

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朝見むかしむかし ① 下樋小川(したびおがわ)https://chodenji.jp/%e6%9c%9d%e8%a6%8b%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e3%80%80%e2%91%a0%e3%80%80%e4%b8%8b%e6%a8%8b%e5%b0%8f%e5%b7%9d%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%b3%e3%81%8a%e3%81%8c%e3%82%8f%ef%bc%89/Sun, 09 Mar 2025 10:43:44 +0000https://chodenji.jp/?p=2964

松阪市の東、明和町斎宮は、伊勢神宮の祭祀を司る斎王が住まいした場所として、国指定史跡に指定され、発掘調査が続けられ、史跡としての整備が進められています。斎王は天皇家直系の未婚の巫女です。都をでた斎王は、下樋小川で、俗界との別れを告げ、禊(みそぎ)を行い、神領に入ります。都から斎王宮への群行は奈良時代から室町時代まで続いたそうです。この群行が行われるのは、天皇家に忌み嫌う事があったときです。そうした事態がなければ、巫女様はずっと斎王宮にいて、伊勢神宮と斎宮との間を往復しながら、祭祀を司っていたのです。

県道37号線を伊勢方面に進み、東松阪駅から来る道との交差点を左折、清生町の信号を過ぎた次の信号手前30mを折り返すように左折、50m程進み左折してすぐの右に『斎王下樋小川御祓所跡』と刻まれた碑が建てられています。

ただ、本来の場所は名古須川より東とされ、この場所ではないようです。

 明和町では、毎年6月に斎王まつりが開かれ、斎王の群行を再現しています。ちなみに今年の斎王まつりは6月7日(土)です。

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朝見むかしむかしhttps://chodenji.jp/%e6%9c%9d%e8%a6%8b%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97%e3%82%80%e3%81%8b%e3%81%97/Fri, 07 Mar 2025 13:20:36 +0000https://chodenji.jp/?p=2962昭和23年合併して松阪市になる前は飯野郡朝見村でした。朝見という地名は、コミュニティセンターと小学校(朝見小学校)にしか残っていません。朝見地区は、朝田町・立田町・和屋町・上七見町・下七見町・新屋敷町・佐久米町・大宮田町・古井町・西野々町の10ケ村からなります。川の氾濫源にあって、自然堤防上にできた集落です。

なかでも朝田=立田=和屋には、古代の遺跡があったり、参宮古道(松坂城主蒲生氏郷が街城下が栄えるようにと街道を城下にひきいれたのが、いわゆる参宮街道、参宮古道はそれ以前の道)が通っていたりと、江戸以前は栄えた地域でもありました。そんな土地ですから、民話や遺跡・民俗行事が残っています。

平安前期の地蔵菩薩や聖観世音菩薩、平安時代後期の多くの菩薩像が朝田寺に残るのも、そうした地域故であろうと思います。これからしばらく、この地区に残る民話や遺跡、民族行事についてお話していこうと思います。~下樋小川と斎王  夜泣き橋  真盛上人と真盛川  佐久米古墳群  土の宮とよいよい神事  堀町遺跡  朝田寺にまつわる話(地蔵の話 轡の話 耳とりの話 掛衣の話)  空也上人の話  穴師神社  面塚の話  七見の下り杉  伏し拝みの松~ 

お楽しみに

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永代供養についてhttps://chodenji.jp/%e6%b0%b8%e4%bb%a3%e4%be%9b%e9%a4%8a%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/Mon, 03 Mar 2025 10:34:20 +0000https://chodenji.jp/?p=2959永代供養については、次にように考えています。

年忌のお知らせやお盆の法要については、可能な限り、ご案内のお葉書を出しています。

お寺に預けるのは簡単ですが、もしお参りいただけるのであれば、きっと故人も喜ばれるはずです。永代供養料は契約時にいただいていますので、お身体ひとつでお気軽にお参りいただければと思います。出来る限り、お寺とご一緒に法要を進めていきたいと考えています。もちろん、永代供養ですから、お出でにならない場合でもお寺でご供養を続けていきます

永代供養は、初七日・二七日・・・・・七七日(四十九日)、百ケ日、一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌・三十七回忌・五十回忌とお盆・春秋彼岸で300,000円です。一周忌からお預かりする場合は200,000円、27回忌以降100,000円のように、お預かりする年数により計算させていただきます。

永代供養墓・永代供養のご相談は、お電話でもメールでも結構です。午前8時30分から午後9時までご対応させていただきます。法要中や境内のそうじ等で電話から離れている場合は、お許し下さい。どうぞお気軽にご連絡下さい。

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