朝田寺

あさみむかしむかし⑤

 

源義朝(みなもとのよしとも)は、平家(へいけ)(ま)けて、尾張(おわり)の国まで(に)げたのですが、長田荘司忠致(おさだのしょうじただむね)(ころ)されてしまいました。長田荘司忠致(おさだのしょうじただむね)は、源氏(げんじ)大将(たいしょう)(よし)(とも)(くび)(と)ったことで、平家(へいけ)の中でも(たか)(くらい)についていました。

 ところが、しばらくして、(より)(とも)平家(へいけ)に勝って、日本の国を(おさ)めるようになると、「父を(ころ)した忠致(ただむね)(つか)まえろ」との命令(めいれい)が出したのです。

 伊勢(いせ)にかくれていることを(し)った(より)(とも)は、家来(けらい)伊勢(いせ)に行かせて、忠致(ただむね)をさがさせました。そしてついに朝田(あさだ)庄屋(しょうや)さんであった(けい)太夫(だゆう)の家にかくれていることを(つ)(と)めました。(より)(とも)から命令(めいれい)された(さむらい)たちは、朝早くから庄屋(しょうや)さんの家を取り囲(と かこ)みました。 忠致(ただむね)は、(かたな)(も)って、家の裏庭(うらにわ)(と)(だ)し、朝田から立田(たつた)和屋(わや)へ、それから佐奈(さな)まで(に)げ、(ふたた)び朝田へともどってきました。しかし、大勢(おおぜい)(お)にはかないません。ついに脇野九郎(わきのくろう)(ざ)衛門(えもん)という(さむらい)(くび)をはねられてしまいました。

 その首は、朝田の西にあるお宮さんまで(と)んで、土をかんで(し)んだそうです。朝田のお宮さんは『(お)(い)多神社(たじんじゃ)』といいますが、「(つち)(みや)」という名は、このお話からその名がついたといわれています。

 また、土の宮は、土の団子を備えてお願いすると、いぼが取れると、今でもお参りする人があるようです。社殿の右には小さな鳥居があって、土の団子が供えられています。