

源義朝は、平家に負けて、尾張の国まで逃げたのですが、長田荘司忠致に殺されてしまいました。長田荘司忠致は、源氏の大将義朝の首を取ったことで、平家の中でも高い位についていました。
ところが、しばらくして、頼朝が平家に勝って、日本の国を治めるようになると、「父を殺した忠致を捕まえろ」との命令が出したのです。
伊勢にかくれていることを知った頼朝は、家来を伊勢に行かせて、忠致をさがさせました。そしてついに朝田の庄屋さんであった慶太夫の家にかくれていることを突き止めました。頼朝から命令された侍たちは、朝早くから庄屋さんの家を取り囲みました。 忠致は、刀を持って、家の裏庭に飛び出し、朝田から立田・和屋へ、それから佐奈まで逃げ、再び朝田へともどってきました。しかし、大勢の追っ手にはかないません。ついに脇野九郎左衛門という侍に首をはねられてしまいました。
その首は、朝田の西にあるお宮さんまで飛んで、土をかんで死んだそうです。朝田のお宮さんは『意非多神社』といいますが、「土の宮」という名は、このお話からその名がついたといわれています。
また、土の宮は、土の団子を備えてお願いすると、いぼが取れると、今でもお参りする人があるようです。社殿の右には小さな鳥居があって、土の団子が供えられています。