朝田寺の歴史

朝田寺の歴史

朝田寺の縁起

寛永15年(1638)栄金住職記には次のようなことが書かれています。 『この地に練公長者(ねりぎみのちょうじゃ)という豪族が住んでいました。長者は篤く三宝を敬い、特に地蔵菩薩を信仰しておられました。神護景雲4年(770)7月24日の暁、館の西を流れる川の辺りに、五色の雲がたなびいているのに気付いた長者が川辺に立ってみると、流れをさかのぼる長さ9尺、径3尺ばかりの霊材が浮かんでいました。長者はこれこそ地蔵菩薩が授け給うた霊材であると家に持ち運び、日夜香華をたむけ、この霊材にふさわしい仏師が来ることを念じておられました。 その間39年、大同2年(807)、空海(弘法大師)が伊勢参宮のみぎり、朝熊山の雨宝童子の導きによって長者宅を訪れ、一刀三拝してこの霊材で地蔵菩薩を彫られました。完成間近、大師、腰部に鑿(のみ)をあてた時出血したのに驚かれ、「肉親の古仏に会えり、何ぞ彫刻を加えんや」と敬服され、礼拝して鑿(のみ)をおかれました。これが朝田寺本尊の地蔵菩薩である』 したがって、朝田寺では、練公長者を開基、弘法大師を開祖としています。 後曹洞宗。祐見法印代(寛永13年住職就任、元禄13年遷化、83歳)に天台宗に改めています。(現在天台宗)

道明け供養と朝田の地蔵

人は亡くなると7日ごとに裁判を受けるといいます。その時に守ってくれる仏様が、初七日はお不動さん、二七日がお釈迦さんと7日ごとにお守りくださる仏様が変わっていくのです。ちなみにお地蔵さんは五七日の仏で、その時の裁判官が閻魔王だそうです。閻魔王が裁く中で、お地蔵さんが「いやいやそうは言うけど、○○にはこんな良いところがるんじゃ」と弁護するのが35日(五七日)。今後どの世界に行くのかが決まる大変な日となります。そして、遺族の方々が故人のために「なんとか極楽への道を」と当寺のお地蔵さんにお願いするのが、松阪市を中心とするこの地方のお参り『道明供養』なのです。
『わしが死んだら 朝田の地蔵へ 掛けておくれよ 振袖を』~これは元禄のころに詠われたと伝えられていますが、着物は服に変わりつつあるとはいえ、今でも参詣される方は、宗派を問わず、衣類を1着持っていらっしゃいます。本堂の天井には、故人の衣類が掛かっており、人々は衣類を通して故人の霊をなぐさめるため、初盆のお参り(8月16日から23日)に訪れます。8月23日夜、7人の出仕僧の読経の中、地蔵菩薩の厨子の幕が下り、扉が閉められます。その後、参詣の方々と故人の衣類を焼き、最後の供養をし、朝田寺の1年が終わるのです。

曾我蕭白と朝田寺

「奇想の画家」と呼ばれた江戸時代中期の絵師、曽我蕭白。奇人・変人という人柄を窺がわせる数々のエピソードに加え、観る者を驚かせる奇怪な画風の水墨画は今でも多くの人に愛されています。
伊勢松阪や播州高砂を中心に活躍した蕭白が28歳、34〜35歳の頃、二度にわたり朝田寺を訪れ、11点の作品を残していきました。毎年4月29日から5月5日の期間、朝田寺書院で11点すべてが公開されています。 衣類が掛かる本堂に座して、地蔵菩薩を前にし、その守りとして『阿吽の獅子』を描き、書院に寝そべり、酒を飲み、ほろ酔い気分にいい気持ちで『ひっくり返った布袋さん』を描き、南廊下の広縁に向かいあって吠える『獏』と『鳳凰』を彩色豊かに描き上げた蕭白。
美術館では観ることができない、感じることができない「蕭白」が朝田寺にはあります。

咲き誇る花のお寺

朝田寺が誇る2,000㎡の庭園。初夏には新緑とともに、紫陽花や蓮で彩られます。
松阪市を中心とするこの地域の信仰である『道明け供養』。今はお茶とお菓子に変わってしまいましたが、昔は、法要が済んだ後、この庭園の中にある書院で酒をのみ精進落としをしたものです。当寺の庭は、そんな方々に少しでも安らかなお気持ちになっていただこうと整備されたものなのです。今では、観光としても多くの方々にご参詣いただいております。