朝田寺

あさみむかしむかし⑤

意非多神社(土の宮)

朝田町の西に小さな森がある。朝田町の氏神、式内意非多神社である。このお宮さんにはこんな話が残っています。

 千年も前、日本の国は平家(へいけ)源氏(げんじ)に分かれて戦争(せんそう)をしていました。源氏の大将であった源義朝(みなもとよしとも)は、平家(へいけ)(ま)けて、尾張(おわり)の国(今の名古屋(なごや))まで(に)げたのですが、長田荘司忠致(おさだのしょうじただむね)(おさだのしょうじただむね)(ころ)されてしまいます。長田荘司忠致(おさだのしょうじただむね)は、源氏(げんじ)大将(たいしょう)(よし)(とも)(くび)(と)ったことで、平家(へいけ)の中でも(たか)(くらい)についていました。

 ところが、しばらくして、(よし)(とも)であった(より)朝(よりとも)(とも)平家(へいけ)に勝って、日本の国を(おさ)めるようになると、「父を(ころ)した忠致(ただむね)(つか)まえろ」との命令(めいれい)が出したのです。

 伊勢(いせ)にかくれていることを(し)った(より)(とも)は、家来(けらい)伊勢(いせ)に行かせて、忠致(ただむね)をさがさせました。そしてついに朝田(あさだ)庄屋(しょうや)さんであった(けい)太夫(だゆう)の家にかくれていることを(つ)(と)めました。

 (より)(とも)から命令(めいれい)された(さむらい)たちは、朝早くから庄屋(しょうや)さんの家を取り囲(と かこ)みました。 忠致(ただむね)は、(かたな)(も)って、家の裏庭(うらにわ)(と)(だ)し、朝田から立田(たつた)和屋(わや)へ、それから佐奈(さな)まで(に)げ、(ふたた)び朝田へともどってきました。しかし、大勢(おおぜい)(お)にはかないません。ついに脇野九郎(わきのくろう)(ざ)衛門(えもん)という(さむらい)(くび)をはねられてしまいました。その首は、朝田の西にあるお宮さんまで(と)んで、土をかんで(し)んだそうです。

 朝田のお宮さんは『()()多神社(たじんじゃ)』といいますが、「(つち)(みや)」ともいわれます。土の宮いう名は、このお話からその名がついたと言われています。

 土の宮に土でつくったお団子を供えお祈りするといぼが取れるということで、今もお参りする人があります。拝殿の右を見ると、土のだんごが供えられています。土の団子をお供えするのも長田荘司忠致のお話に関係するのでしょうか。

 2月11日に行われる「よいよい神事」は、朝田から立田、和屋、佐奈へと逃げ、またその道を帰ってきた長田庄司忠致の足跡を清めるお祭りとして、今もなお行われています。(「よいよい神事」については後日、あさみむかしむかしでお話します)