下村先生は、私の大学の11年先輩で、皆から「トラさん」と親しまれ、尊敬された方です。私が大学のころから、発掘現場にいらして、いろいろご指導いただきました。
学生の頃、発掘現場には何人かの先輩方がやってこられ、自然に縦のつながりができていました。
「榎本くん」、教員として11年経った頃、下村先生から声がかかりました。「すまんが、三年ほど、掘ってくれんか。」 先輩からの一言は絶対です。電話一本で松阪市の教育委員会に席をおいて、草山遺跡の調査に従事することになりました。 家に帰り、そのことを話すと、「私に相談もなくて」と叱られましたが、先生の頼みを断ることはできませんでした。 それから八年間、市域の発掘調査に携わることになったのですが、その間、どれだけ教育委員会の仕事が忙しくても、「ちょって手伝ってくれないか」と私に声をかけることなく、調査に専念させてくださいました。また、年に二泊三日の研修や、藤原京への技術研修、平城京での航空測量の研修など長期の研修にも行かせて下さいました。
退職後は、松阪市文化財保護審議会会長として、江戸時代の豪商として残る小津家・長谷川家の整備・保存・国指定や、御城番屋敷の修理・保存・国指定、松阪城の石垣修理、宝塚古墳の調査等々、松阪市の文化財整備には先生なくして実現しなかったといっても過言でないほど、尽力されました。
その先生が急死されたのは令和4年11月でした。 葬儀には、下村先生と共に、文化財の調査・保存に携わってきた面々が集まり、先生の死を悼みました。それから2年4ヵ月。
令和7年3月25日、地元紙の夕刊三重に【『髙塚1号墳』町文化財に指定】の記事の中で。「明和町文化財保護審議会会長・町郷土文化財を守る会長であったの下村登良男さんが立ち上がり、令和3年から古墳のある山を整備し、草刈りを実施。全長72mの帆立貝式古墳について、現地見学会や町内小学生向けの説明会を開催されてきた」ことが書かれていました。髙塚古墳文化財指定の影には、下村先生の地道な活動があったのです。
私は、その記事を読んで嬉しくなりました。トラさんは、まだ生きていると。『人は二度死ぬ』といいます。一度目は息を引き取った時、二度目はこの世の中から忘れられた時。トラさんとはまだまだ会えそうです。