意非多神社(土の宮)

朝田町の西に小さな森がある。朝田町の氏神、式内意非多神社である。このお宮さんにはこんな話が残っています。
千年も前、日本の国は平家と源氏に分かれて戦争をしていました。源氏の大将であった源義朝(みなもとよしとも)は、平家に負けて、尾張の国(今の名古屋)まで逃げたのですが、長田荘司忠致(おさだのしょうじただむね)に殺されてしまいます。長田荘司忠致は、源氏の大将義朝の首を取ったことで、平家の中でも高い位についていました。
ところが、しばらくして、義朝の子であった頼朝(よりとも)が平家に勝って、日本の国を治めるようになると、「父を殺した忠致を捕まえろ」との命令が出したのです。
伊勢にかくれていることを知った頼朝は、家来を伊勢に行かせて、忠致をさがさせました。そしてついに朝田の庄屋さんであった慶太夫の家にかくれていることを突き止めました。
頼朝から命令された侍たちは、朝早くから庄屋さんの家を取り囲みました。 忠致は、刀を持って、家の裏庭に飛び出し、朝田から立田・和屋へ、それから佐奈まで逃げ、再び朝田へともどってきました。しかし、大勢の追っ手にはかないません。ついに脇野九郎左衛門という侍に首をはねられてしまいました。その首は、朝田の西にあるお宮さんまで飛んで、土をかんで死んだそうです。
朝田のお宮さんは『意非多神社』といいますが、「土の宮」ともいわれます。土の宮いう名は、このお話からその名がついたと言われています。
土の宮に土でつくったお団子を供えお祈りするといぼが取れるということで、今もお参りする人があります。拝殿の右を見ると、土のだんごが供えられています。土の団子をお供えするのも長田荘司忠致のお話に関係するのでしょうか。
2月11日に行われる「よいよい神事」は、朝田から立田、和屋、佐奈へと逃げ、またその道を帰ってきた長田庄司忠致の足跡を清めるお祭りとして、今もなお行われています。(「よいよい神事」については後日、あさみむかしむかしでお話します)

