建物や仏像、歴史のはなし ~ 朝田寺住職の手記 ~
この記事は、過去に先代住職、榎本義譲が記したコラムを再編集したものです。
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千年を超える歴史の中で、朝田寺に伝えられてきた、残されてきたものがたくさんあります。当事の歴史を少し解説していきます。
縁起
寛永15年(1638)栄金住職記には次のようなことが書かれています。 『この地に練公長者(ねりきみのちょうじゃ)という豪族が住んでいました。長者は篤く三宝を敬い、特に地蔵菩薩を信仰しておられました。神護景雲4年(770)7月24日の暁、館の西を流れる川の辺りに、五色の雲がたなびいているのに気付いた長者が川辺に立ってみると、流れをさかのぼる長さ9尺、径3尺ばかりの霊材が浮かんでいました。長者はこれこそ地蔵菩薩が授け給うた霊材であると家に持ち運び、日夜香華をたむけ、この霊材にふさわしい仏師が来ることを念じておられました。 その間39年、大同2年(807)、空海(弘法大師)が伊勢参宮のみぎり、朝熊山の雨宝童子の導きによって長者宅を訪れ、一刀三拝してこの霊材で地蔵菩薩を彫られました。
山門
延宝元年(1673) 昭和54年2月23日県指定






切妻造・本瓦葺・一間一戸四脚門。四脚門としては、堅実な造りといえます。例えば、本柱通りの冠木中央部の構造を見ると、まず冠木上に大斗を置き、木鼻つき平三斗をのせ、その上に左右へ連三斗を重ね、さらに実肘木をのせて桁を受けています。桁上に蟇股を置き、さらにその上に木鼻付実肘木を置いて化粧垂木を支えるといった手の込んだ手法を施しています。 山門をくぐると、壮大華麗な妻入りの本堂が広がります。
本堂
慶安5年(1652) 昭和54年3月23日県文化財指定

慶安5年(1652)、伊勢大湊の船大工、阿部久五郎によって建てられる。桁行6間、梁間3間、外陣・内陣・内内陣をそれぞれ2間にとった入母屋造り本瓦葺き、妻入りの建物である。内内陣は一段高く、その中央に須弥壇があり、その上に建築用厨子を拵えて本尊地蔵菩薩を安置する。この内内陣にあたる2間分は、安永7年(1778)に建て増ししたものである。その際、本堂が低く見えたのか本堂全体を30cmほどかさ上げしており、そのときの記録「本堂あげ方の図」が寺に残されている。柱上の組物は出組、天井は折上小組格天井、妻は三ヶ所に木鼻付平三斗をおいて大虹梁を受け、拝・降懸魚はともに三花である。地方寺院としては丁寧な造りで、桃山時代建築の遺風を残している。本堂を正面から観ると、大きく広がる屋根が美しい。
室町時代、真言宗から曹洞宗に転宗し永平寺の支配を受ける。元和(げんな)5年(1619)、紀州藩領になると、天台宗延暦寺派となり、藩主徳川頼宣の帰依をうけ、紀州家の延命・安産の祈願寺として加護を受け、寺領も増加し、寺運は隆盛に赴いた。両側の石燈籠は徳川頼信の寄進による。 本尊地蔵菩薩を安置。内内陣奥、左右の壁には曽我蕭白筆の唐獅子図が貼り付けられていた。内陣天井には初盆を迎える故人の衣類が掛けられている。
書院(客殿)
元禄11~12年 平成31年4月18日市文化財指定



朝田寺客殿は、元は南面3室(西より10畳・10畳・12畳半)、北面3室(8畳・8畳・10畳)で、四周を濡縁で囲む書院造りの建物で、柱は栂財。北面西の8畳は一段高い上段の間となり、正面右に床、左に付け書院を備えている。後世、正面東側に玄関と奥に10畳2室を増築し、中央10畳の間を北(奥)に出して仏間を広げたため、創建当初とは異なっている。また、正面の塀は、元文5年(1740)に造られたものです。南面西側の下り棟の鬼瓦には『元禄十二歳 已卯二月吉日』のヘラ描き銘、南面東側の下り棟の鬼瓦には『元禄十一歳戊寅八月吉日 冨嶋九郎兵衛』のヘラ描き銘がある。 この2つのヘラ描き銘から、元禄11年(1698)から12年にかけて建立されたと考えられる。
本尊地蔵菩薩(本尊)


〜榧の一木造、像高169㎝、平安前期、
国指定重文(明治37年8月29日指定)
亀山慈恩寺の阿弥陀如来と並んで、伊勢湾西岸では最も古い佛である。
太い眉、目は切れ長で半眼、口を一文字に結ぶ。左手は手のひらを上に向け、右手
は垂下して、衆生に手の平を向ける与願印を結ぶ。左手の宝珠は後で持たされたものである。首は短く猪首で胸を張った堂々とした森厳な姿の仏で、その姿や衣紋の彫りに、平安前期の特徴を残している。蓮肉(台座の上を向いている部分)を含めて一木で作られている。台座は楠の木の一木で、素朴で雄大な単弁八葉の反花座となっている。 象の表面は白土がはがれ木地が見える状態だが、光をあてると、わずかに渦巻状の衣文が 確認できる箇所もある。
出開帳に使われた地蔵菩薩
重文に指定されている本尊地蔵菩薩の模刻です。地蔵信仰が広がるのは、平安時代の後期。信仰を集めていた朝田寺のお地蔵さんを他のお寺に運び、開帳する、出開帳が行われたのでしょうか。同じ背丈・衣装のよく似た地蔵菩薩です。鎌倉時代以後の作と考えられています。
聖観世音菩薩立像

平安前期・榧材、象高 平安前期の聖観世音菩薩です。昭和19年の南海地震の3日後に崩壊した観音堂の本尊でした。両腕と脚裾部が朽ちて修理されています。朝田寺本堂に安置されている地蔵菩薩(平安前期)に次いで古い平安前期の仏です。全体に痛みがひどいのが残念です。
その他、平安時代の仏たち
平安前期の地蔵菩薩と平安時代後期の三尺佛(1メートル前後の菩薩像)
地蔵菩薩



朝田寺は地蔵信仰に支えられてきたお寺です。朝田寺には、本尊の地蔵菩薩(平安前期・国指定)の他にも、鎌倉以前に造られたと思われる本尊を摸刻したるお地蔵様、平安前期の地蔵2体、平安後期の地蔵3体が残っています。前期の地蔵2体、後期の地蔵3体は、足先が取れたり、裾部分が朽ちたり、手が取れたり、鼻が削られたりと痛みが激しい状態で、長い年月を感じさせます。都の名のある仏師が彫ったのでなく、在地の仏師たちの作品でしょう。決して整った仏ではありませんが、それが逆に、親しみを感じさせます。1000年、1100年という年月の中で、時には堂の隅っこに、堂が痛み雨漏りにあったかもしれません。戦乱の中で被害にあったかもしれません。痛みや傷を負いながら今に姿を残す仏たちに愛着を覚えるのは、私だけではないでしょう。逆に言えば、そんな長い年月を耐え、痛みも少なく、今も堂々と威厳を保つ本尊の地蔵菩薩。人々の篤い信仰に支えられ守られてきた証なのでしょうか。
観世音菩薩
観音堂には本尊の聖観世音菩薩と三尺佛と言われる像高1m前後の7体の菩薩像、がお祭りされていたと思われます。地蔵菩薩4躰・観世音菩薩3体が残っています。
1000年過ぎる年月の中、いつの時代か痛んだお顔を新しく挿げ替えた姿に、人々の信仰を観る想いがします。
大日如来(平安後期)

腕が折れ、修理した腕も傷みが著しく、智拳印の人差し指が折れています。腰から下は後補で、元は座像なのか立像なのかは不明です。 上品で、左から観ると口元に笑みを感じる優しい顔立ちで肩から締まった腰にいたる姿の美しい佛です。
弥勒菩薩 (江戸初期)

今は兜率天という世界にいて、釋迦入滅後56億7000万年先に仏となって現れる未来の仏です。その間を救うのが地蔵菩薩であると説かれ、お地蔵様と縁の深い仏です。 広隆寺や中宮寺の右手を頬に寄せ半跏座を組んだ像が有名ですが、当寺の像は定印に宝塔を持った座像となっています
大樹 〜大楠(楠の木)

遠くからでも見える朝田寺のシンボル的存在の大樹です。幹周りは大人4人が手をつないだ程の太さ。4月末には新芽に変わるため、大量の落ち葉ができます。これはこれで、草が生えにくいよう庭にまいて役立っているのです。
参詣の方からよく聞かれます。
「この木は何年くらい経っているのですか?」
私はこう答えます。 「さぁ?木にたずねて下さい。」
朝田寺がこの地に移るのが室町時代ですから、その頃からあったとしたら、400年~500年前でしょうか?私にはわかりません。
大樹 〜 凪の木 〜

凪の木の葉の葉脈は竹の葉のように真っすぐ縦方向についています。横に裂けにくいことから、仲を裂かない家庭円満のお守りにもされます。お宮さんの神木にもなっていますよね。
朝田寺の境内には3本の凪の木があります。1本はひとり生えで10歳くらい。背丈は3mほど。もう本は、私の子供の頃からある木ですが、5mくらいで、子供の頃から大きさほとんど変わっていません。一番大きな木は経蔵の隣にある高さ10mを超える木です。楠の大樹に比べたらその太さは5分の1程度ですが、成長の遅い木です。
お歳は、楠の木と同じくらい・・・?
大樹 〜 槇の木 〜

永代供養墓の両側に2本の大きな槇の木があります。客殿裏にあるもう1本を含めて、計3本、共に15mを超える大木です。 左の樹齢100年ほどの楠の木に負けないくらい大きくそびえています。槇は成長の遅い木です。本堂の建立が慶安5年(1652)ですから、その頃植えられたとしたら360年、・・・楠に槇に、凪、椎・・・きっと同じ頃に植えられたのかもしれません。 当寺と共に時を刻んできた建造物、仏像、大樹。朝田寺の歴史を感じていただければ幸いです。

光福山延命院朝田寺 住職 /高橋義海
光福山延命院朝田寺 名誉住職 /榎本義譲
「朝田寺」は、三重県松阪市朝田町にあり、四方を水田に囲まれた歴史と文化と花の田舎寺です。地元では、朝田の地蔵さんと呼ばれて親しまれております。また、江戸時代中期の絵師「曽我蕭白」の作品等の文化財も所蔵、公開しております。