行年・享年、お布施、仏様のはなし ~ 朝田寺住職の手記 ~
この記事は、過去に先代住職、榎本義譲が記したコラムを再編集したものです。
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寺にお参りされる方と話していると、その言葉の意味をご存知なく、使っていらっしゃる方が多くいらっしゃいます。説明してあげると、初めて聞きましたとの答えが返ってきます。これから、そんな言葉のいろいろについてお話してみようと思います。
行年・享年
位牌をひっくり返して裏を見ると、お墓の石でもそうですが、お年の上に『行年』とか『享年』 という二文字がついています。この行年とか享年というのは、同じ意味で、「人が亡くなったときは、その人が生きた命の長さを数えましょう」ということです。
人の命はどこから始まるでしょう。生まれてからではないですよね。そう、お母さんのお腹の中で命が芽生えた日から始まるのです。だから、人は亡くなると、満年齢に1歳足して記すのです。
ここ何年かで、日本の平均寿命はどんどん高くなり、世界1の長寿国となりました。でも、時代をさかのぼれば、人の寿命はもっと低く、疫病がはやると弱い幼児や子供・お年寄りが亡くなりました。出生して亡くなる子どもも多かったでしょう。しかも、病院でなく自宅で息を引き取りました。今よりもっともっと、人の命を身近に感じた時代です。
「人の命は生まれてから始まるんじゃないんだぞ。お母さんのお腹の中から始まっているんだぞ。人の命って尊いものなんだよ。だから、亡くなった時は行年・享年という言葉を上につけて1歳多く記すんだよ」
行年・享年という数え方はすごく暖かい数え方、今の時代こそ大切な数え方だとは思いませんか?
子供を下ろした若い兄ちゃん姉ちゃんがお参りすると、仏様に供養にきたことを褒め、ごめんなさいという気持ちで手を合わせなさいといい、回向が終わった後で、行年・享年の話をします。そして最後に、二度と来るなよというのです。
ちなみに、何年生まれは行年・享年でいうと何歳という早見表があります。ネットで検索しても見つかるのではないでしょうか。これを見て判断する場合には、少し注意が必要です。
例えば、令和8年1月3日現在を基準に考えた場合、同じ昭和35年生まれでも、誕生日が過ぎた方は満65歳、行年・享年66歳、誕生日がまだの方は満64歳、行年・享年65歳となります。 早見表の多くは、「昭和35年生まれ」で一括りにまとめて満年齢を記載してあることが多いため、誕生日がまだなのに行年・享年66歳とされてしまうことが時々あります。行年・享年の意味が分かってないから起こる間違いですね。
お布施
「不祝儀の袋には何て書けばいいですか」 と、朝田寺にお参りになった方から、よく聞かれることがあります。 お寺にお参りして読経をしていただいたり、お坊さんが家にきて回向をしてもらった時、不祝儀の袋の表書きのことで迷ったり、困ったりしたことはありませんか?そんなときには、何でも「御布施」(布施=布を施す)と書きます。
毎日を修行についやしたり、経の勉強をしたり、人々の為に尽くす昔のお坊さんは、生産をしませんから、家庭を回って、お米や食材をいただいたり、布をいただいたりしました。その布を継ぎ合わせて袈裟(お坊さんが衣の上からかけていますよね。大きさや形はいろいろです。)を作りました。今私達が着ける袈裟は法衣店で買い求めますが、その袈裟は今でも布を継ぎ合わせて作られています。いただいた布を使って作られたなごりなのです。『布施』は、お坊さんに布を施したことからきている言葉はなのです。布施には、修行僧や仏法に帰依する僧に対する尊敬の念が含まれるいい言葉です。だから、お坊さんに対して出す金銭や品物はすべて『布施』でいいのです。ただ、お寺が料金表によって支払いを要求するのは、『布施』とは言わないのでしょうね。
初七日の仏=不動明王

人は亡くなると冥土の旅に出ます。49日間は行き先が決まらず、7日ごとに行く先々で生前の行いが調べられ、その罪が裁かれるのだそうです。この裁判で個人がよりよい判決を受けるように供養し回向するのが、初7日の法要です。初七日の裁判官は秦広王(しんこうおう)。ここでは生前の罪が調べられます。同時に善い行いをしたかどうかも調べられます。その際に守って下さるのが不動明王という仏です。不動明王は五大明王のひとつで、仏教を守る任にあたる仏で、大日如来が代わった姿(化身)なのです。大日如来は、すべての仏をまとめる宇宙全体の象徴である仏です。大日如来は自らの位に止まっているため、私達には近づきにくいものです。そこで、化身である不動明王が私達を教え導く仏となって、人間世界に下りてくるのです。右手には知恵を表す利剣を持ち、知恵の力で煩悩を断ち切ります。左手のロープは羂索(けんさく)といって、この縄で誤った道に入った者を引き戻すとされる仏です。
二七日の仏=釈迦如来


歴史的に実在した唯一の仏、それが釈迦如来です。 王子として生まれたシッダールタは29歳で出家し、故郷を離れ求道生活に入ります。当時の高名な宗教者について修行や、呼吸法や断食などの修行を続けていましたが、それでは満足できませんでした。そして、苦行をやめてガヤーの町の近くの菩提樹の下で禅定にはいり、3週間の瞑想の後に、悟りを開きます。釈尊35歳のこととされます。その後、入滅するまでの45年間、説法をし、仏教の基礎を築きました。
余談ですが、両手の手の平を上にして、左手の上に右手を重ね、左手と右手の親指を合わせ、おへその下におきます。座禅をする時の手の形は「釈迦の定印」といいます。この手の形を知っていると、阿弥陀如来と釈迦如来を見分けるのに便利です。 さて、二七日の裁判官は初江王(しょこうおう)です。その前に死者は「三途の川」を渡らねばなりません。ここで弁護するのがお釈迦様なのです。
三七日の仏=文殊菩薩

「三人よれば文殊の知恵」と言われるように、学問成就の祈願に参拝される方が多い知恵の菩薩です。一般に、文殊菩薩の像は、左手に剣を握り、右手に経巻を持ち、多くは獅子に乗った姿で表されます。釈迦如来の脇侍として釈迦三尊の形でつくられることが多い。当寺の文殊菩薩(写真)も釈迦三尊の脇侍です。
さて、三七日の裁判官は宋帝王(そうていおう)です。ここには猫と蛇がいて、この生き物が、死者の邪淫(みだらな行い)の罪を調べます。この日の弁護士が文殊菩薩です。ここで死者は、文殊菩薩の知恵により、仏教の教えを学ぶのです。
四七の仏=普賢菩薩

文殊菩薩とともに、釈迦の脇侍としてお祭りされることが多く、釈迦三尊といわれます。諸仏を敬い、如来を称賛し、広く供養を行い、罪を懺悔し、仏の誓願を実行する、慈悲の仏で、象に乗った姿で表現されます。朝田寺から車で20分、多気郡多気町神坂の普賢寺の平安前期の普賢菩薩(国指定重要文化財)は必見です。
死後28日目、四七日をつかさどる仏が普賢菩薩です。この日の裁判官は五官王で、死者の生前の罪の重さが裁かれます。この時に弁護するのが、慈悲の心を持った普賢菩薩なのです。
五七日の仏=地蔵菩薩

地蔵菩薩は、お釈迦様が亡くなって弥勒如来が出現するまでの56億7000万年の間、この地にあっ
て人々を救うとされます。罪深い一切の衆生を仏の道に導かないうちは、自分は絶対に仏にならないと誓願され、迷える衆生が一人でもいるうちは、菩薩のままで、人間世界にあって活動される仏、それがお地蔵様です。
古くは、左手はひじを曲げて手の平を上に向け、願いごとを受け、右手をさげて手のひらを衆生に向け、願いごとを叶える、『与願の印』を結ぶ姿で表されます。平安時代の終わりになって、地蔵信仰が広がると、左手に宝珠(願いごとを叶える珠)、右手に錫杖を持つ姿に変わり、衆生と共に歩く姿で表されるようになのです。
地蔵菩薩の活動範囲は「六道能化のお地蔵さん」という言葉のように、上は天上界から下は地獄界(天上界・人間界・畜生界・修羅界・餓鬼界・地獄界、これで六道)に至るまで様々なものものに身を変えて我々を救ってくださいます。なかでも苦悩の大きい場所は地獄や餓鬼の世界です。地獄の裁判官である閻魔王も地蔵菩薩の化身(代わりの姿)なのです。
35日目の裁判官は閻魔王です。裁判の席では、死者の生前の罪状が水晶の珠に映し出され、善と悪を天秤にかけて、罪の重さが測られ、どちらが重いかで行き先が決められるといいます。そこで、弁護するのがお地蔵さまです。 お地蔵様は閻魔様との二役をしているのです。
六七日の仏=弥勒菩薩

弥勒菩薩は、仏となる資格を持ちながら、現在、菩薩のままで、弥勒の浄土で天人に対して説法をしている仏で、釈尊の滅後、56億7000万年後に、この世に降りてきて衆生を救うとされます。そのために、釈迦のあとを継ぎ、未来の救済を約束された未来仏であるといわれます。ただし、その時は、弥勒菩薩でなく、弥勒如来となっているのです。
中宮寺や広隆寺・法隆寺の片足を組み、右手を頬に当ててじっと思惟にふけっている姿の半跏思惟像が有名です。当寺(朝田寺)の弥勒菩薩は、釈迦の定印に組んだ手に宝塔を持つ姿で表現されています。
六七日、死後42日目、裁判官は変成王(へんじょうおう)、弁護人は弥勒菩薩です。
七七日の仏=薬師如来

薬師如来は、東方瑠璃世界の浄土にいらっしゃることから、正式には「薬師瑠璃光如来」といいます。そこは、瑠璃でできた大地に七宝の建物が立ち並び、瑠璃の光が発せられています。その光で、衆生の病が治るとされるのです。薬師如来とは、その名前の通り、衆生の病気を治してくれる仏なのです。右手のひらをお参りする皆さんの方に向ける施無畏印、左手に薬壷を持つのが一般的なお姿です。
49日(七七日)の裁判官は泰山王(たいざんおう)、弁護人は薬師如来です。行き先が決まる最終審判の日です。お薬師さんは、この後のあの世の世界でしっかりやりなさいと、薬を持たせて送り出してくれるのです。 ・・・ということは、この後も旅が続くの?そうなんです。それが六道の世界なのです。続いて六道の世界を解説していきます。
六道
人は死ぬと、すぐに極楽に行くとか地獄に落ちるのでなく、7日ごとの裁判を受けながら49日の間旅をするとされます。その旅の期間が『中陰』で、旅が終わり行き先が決まる日が『満中陰』(七七日)です。49日の仏「薬師如来」は薬を持たせて、この「六道」の世界に送り出すのです。「六道」の行き先は生前に犯した罪の重い・軽いによって決まります。
『天道』 悩みも苦しみも争いも全くない、人間界より楽で寿命も長い世界。
『人道』 楽しみもあるが、苦しみや悩み・迷い・争うもある人間の世界。
『阿修羅道』 争いや戦いが止むことのない憎み怨みの世界。
『畜生道』 本能のまま生き、人間に使役される世界。
『餓鬼道』 決して満たされることのない欲望と飢えの世界。
『地獄道』 絶えず鬼の責め苦を受ける苦しみの世界。
この中の地獄道についてお話を進めることにしましょう。
地獄は、私達の住む大地の地下深くにあって、生前の行いの報いを受ける所です。
地獄のことをインドの古い言葉で「ナラク」といいます。漢字で書くと「奈落」。劇場の花道の下の床下を「ナラク」というのも、ここから来る言葉です。 天台宗の僧、恵心僧都(源信)の『往生要集』は地獄のことを次のように書いています。地獄は次の8つが上下に重なっていて、下に行くほど苦しみが増すとされています。
『等活地獄』
罪人同士が刀で切りつけ合う。肉が裂かれ血が噴き出している。生前、動物に対
し殺生した者が落ちる。
『黒縄地獄』
熱い鉄の縄で縛られる。釜ゆでもある。殺生・盗みをした者が落ちる。
『衆合地獄』
恐ろしい鳥や牛や馬の頭を持った鬼が襲ってくる。山の木や葉は刀でできていて逃げ場がない。
『叫喚地獄』
地獄の鬼たちによって釜ゆでにされる。あらゆる病気があって、身体中が虫に食いつくされる。
『焦熱地獄』
罪人は串刺しにされ、強い火力の炎で焼き尽くされる。
『大焦熱地獄』
焦熱地獄よりさらに強い猛火で焼き尽くされる。
『阿鼻地獄』
無間地獄ともいう。ひとときも休むことなく責め続けられる最悪の地獄。地獄の深さは一番近い等活地獄は5000由旬(1由旬は14.4㎞)、大きさは1万㎞の立方体。一番下の阿鼻地獄ではその10億倍だそうです。
《六道の世界で救済する仏が『お地蔵様』》
49日が済んだ故人は、六道の世界に行くのだそうです。お墓の入口にある『6 体のお地蔵様』、6体のお地蔵さまが、六道に分かれ、六道に落ちた衆生を救うのです。地獄道に入ったから、それで終わりではないのです。
百ケ日の仏=聖
菩薩

朝田寺の平安前期の聖観世音菩薩は、腕が折れ、足元が朽ち、お顔の漆がはげて痛ましいお姿ですが、腰をひねった女性らしいしなやかな仏です。
百カ日の法要を『卒哭忌』ともいいます。「哭=泣き叫ぶ」の意味です。それを卒業するのが百ケ日というわけです。「故人の死を受け止め、泣くのはこの日でやめましょう」というわけです。
この日の裁判官は平等王、弁護士は聖観世音菩薩です。ところで、四十九日まではインドで生まれた考え方で、中国で百ケ日の法要が加わりました。四十九日の審判で、地獄や餓鬼の世界に落ちたとしても、さらなる供養(追善法要)によって救われると考えたからなのです。
百ケ日の後は壱周忌、その後は三回忌、七回忌、十三回忌、十七忌・・・と続いていくのですが、実は、七回忌以降の供養は、インドや中国にはなく、日本で生まれた追善法要なのです。 一般には五十回忌まで勤めるお寺が多いようですが、百回忌、二百回忌と勤められるお寺もあります。 ちなみに、天台宗の総本山である比叡山延暦寺では、平成24年から3年間、第3世座主で、「往生要集」を表した恵心僧都の1150年忌が営まれています。では、私たちは何回忌まで追善供養をしたらいいのでしょう?
一周忌からあとはどうする?
これまでの仏様を整理すると、初七日から百ケ日までの仏様は次のようになります。 初七日(不動明王)・二七日(釈迦如来)・三七日(文殊菩薩)・四七日(普賢菩薩)・五七日(地蔵菩薩)・六七日(弥勒菩薩)・七七日(薬師如来)・百ケ日(聖観世音菩薩)・一周忌(勢至菩薩)・三回忌(阿弥陀如来)・七回忌(阿閦如来)・十三回忌(金剛界 大日如来)・十七回忌(胎蔵界大日如来)・二十三回忌(愛染明王)・二十七回忌(金剛界 大日如来)・三十三回忌(虚空蔵菩薩)・三十七回忌(金剛薩埵)・五十回忌(三回忌に準ずる)・百回忌(十三回忌に準ずる)。
私の父が亡くなって、23年になります。四十九日・百ケ日が済み、初盆が終わると、ちょっとホッとします。一周期・三回回・七回忌・・・父の兄弟も親戚の叔父や叔母も元気で、父との思い出話に花がさきます。十三回忌・・・十七回忌、次第に参加いただく方が一人・二人と欠け、「この次は来れないかもしれないな」なんて言葉が出るようになって・・・。昨年の23回忌は、叔父夫婦と私の子供家族3組の参加となりました。 父を知るのは、叔父夫婦、私たち夫婦、子供3人の7人。長男のお嫁さんと子供2人、長女の旦那、次男のお嫁さんと子供1人の6人は、父の顔をしりません。だから父のことはほとんど話題になりませんでした。「そんなので年忌をする意味があるの?」と思う人もいるでしょう。
でも、私は思うのです。父がこうして私たち家族を集めてくれているんだと。「私の年忌の時くらい、家族全員が集まるように」と。次男は近くに住んでいますが、長男は東京、次女は相模原。お盆や正月に帰ってきても、時間差でみんながそろうことはありません。全員がそろうのは年忌のとき。きっと父がみんなを合わせてくれているんですよね。 27回忌・・・33回忌・・・37回忌・・・新しい顔が増えているでしょうか。 年忌って、亡くなった人を供養するためのものでもある一方、家族の命を繋いでいく、生きている私たちのためのものでもあると思いませんか?

光福山延命院朝田寺 住職 /高橋義海
光福山延命院朝田寺 名誉住職 /榎本義譲
「朝田寺」は、三重県松阪市朝田町にあり、四方を水田に囲まれた歴史と文化と花の田舎寺です。地元では、朝田の地蔵さんと呼ばれて親しまれております。また、江戸時代中期の絵師「曽我蕭白」の作品等の文化財も所蔵、公開しております。